2023/03/09 花小金井・萩山散歩 03 泉蔵院/東久留米市 郷土資料室/あじさい公園/滝山団地第二住宅/滝山公園/中央名店会(ブラックジャックデザインマンホール)/滝山歩道橋

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/09/183000




◆泉蔵院

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2023/03/09 泉蔵院 - ovanの社会科見学





東久留米市 郷土資料室

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2023/03/09 東久留米市郷土資料室 - ovanの社会科見学





あじさい公園






◆滝山団地第二住宅






◆滝山公園(久留米土地区画整理事業 竣工記念碑・慰霊碑)

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2023/03/09 滝山公園(久留米土地区画整理事業 竣工記念碑・慰霊碑) - ovanの社会科見学





◆中央名店会(ブラックジャックデザインマンホール)

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2023/03/09 中央名店会(ブラックジャックデザインマンホール) - ovanの社会科見学





◆滝山歩道橋

下は滝山中央通り。







続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/09/193000

2023/03/09 花小金井・萩山散歩 02 子守地蔵尊/花小金井出張所/武蔵公園/武蔵野神社/地蔵尊/公立昭和病院/新小平駅跡

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/09/180000



◆子守地蔵尊






◆小平消防署 花小金井出張所





小金井市立武蔵公園






◆武蔵野神社

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2023/03/09 武蔵野神社 - ovanの社会科見学





地蔵尊



google mapに載っていなかった。
場所は上の写真のところ辺り。





◆公立昭和病院





新小平駅



google mapの場所は上の写真のところ辺り。
挙動が怪しく、携帯版じゃないと出てこないので、消えるかもしれないね・・・。



近くで撮り鉄(w





続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/09/190000

2023/03/09 花小金井・萩山散歩 01 花小金井駅/拓殖大学第一高等学校誕生の地/一願也地蔵菩薩/円成院/東京都小平合同庁舎/花小金井商栄会/小祠(花小金井5-36)


24時間勤務アケで、西武新宿線花小金井駅から同じく萩山駅まで散歩。




花小金井駅

西武新宿線花小金井駅








拓殖大学第一高等学校誕生の地



拓殖大学予科」 移転開校 : この地で始まる
【この地での沿革】
昭和15(1940) 年 4月  拓殖大学予科茗荷谷よりこの地に移転開校
昭和20(1945) 年 11月  大学名を紅陵大学と改称
昭和23(1948) 年 3月  学制改革により、 予科を大学に改編し、茗荷谷へ移転 紅陵高等学校 (新制) として設立認可
昭和23(1948) 年 4月  予科移転後の校舎などを活用し紅陵高等学校 (新制) として開校
昭和25(1950) 年 4月  正明中・高等学校と改称
昭和27(1952)年 11月  大学名を拓殖大学に戻す
昭和36(1961) 年 8月 拓殖大学第一高等学校と改称
【昭和15(1940)年4月 拓殖大学予科開校以降~平成16(2004)年3月 玉川上水に移転まで】
この記念碑は、 拓殖大学予科の移転開設から数えて64年間の長きにわたり
このまちの発展とともに歩んできた本校が、 小平市とUR都市機構が行う
新たなまちづくりに協力し、この地を離れるにあたって、 その記念として設置するものである
「ありがとう花小金井






◆一願也地蔵菩薩








◆円成院

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2023/03/09 円成院 - ovanの社会科見学






◆東京都小平合同庁舎

ちゃんとしたHpなどみあたらなかった。
google mapをみると「東京都水道局小平サービスステーション」と「東京都主税局 小平都税支所」が同居しているみたい。
詳しい事をご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
ぺこ <(_ _)>






花小金井商栄会

商店街♪







◆小祠(花小金井5-36)







続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/03/09/183000

2023/03/06 秋津神社



当神社のご祭神日本武尊ヤマトタケルノミコトは日本古代史における伝承上の英雄です。「古事記」では倭尊命と記し「日本書紀」では日本武尊と記します。
古事記にはヤマトタケルが父の景行天皇から不信の念を抱かれ、西征・東征と目覚ましい武勲をたてていくも、最後には父にまみえることが無いまま倒れる、何とも劇的なストーリーです。
西方の熊襲征伐には童女に紛して川上条師カワカミノタケシに近づきこれを討ち、また東征の蝦夷平定に向かう途中、天叢雲剣アメノムラクモノツルギで野火の雛をはらい、走水ハシリミズの海で、姫の弟橘比売命オトタチバナヒメノミコトの入水により海上の難を逃れたが、伊吹山で賊を征伐中、伊勢の能褒野ノポノで崩じた。死後その霊は白鳥となり大和に渡ったとされております。
この様に日本武尊は日本神話において最も武力に優れた英雄的な神で、半神半人である点などもギリシャ神話における最大の英雄と言われた、ヘラクレスを彷彿とさせる多くの活躍が記紀に記されています。
秋津神社の創立由緒については明確ではありませんが、文政三年に記された「武蔵名勝図会」によれば、元弘の戦いの際に新田義貞日本武尊の武威を慕ってこの地陣をはり、不動像をかけて祈念したことから、その後不動像を安置して鳥居を設けて祀ったことが創始という。因って平成三十年より遡るおおよそ六百八十年ほど前に建立されたことになります。
明治三十八年調製の「社寺台帳附社寺明細帳」によると「天授年中ノ創立ナル事ハロ碑ノ伝フル所ニ微シテ明也、寛永年中聖護院宮御参拝当時、同宮ヨリ当村開始ノ祖神ナルヨリ、村名ヲ冠シ秋津神社ニセヨトノ御伝詞フ賜ル、併二提灯ニ張フ献ゼラレタル事ハ古老ノ口碑ニス」とあり、村民持ちの不動堂がこれにあたるようである。
「また「風土記稿」には「不動堂、無年貢地、二段七畝、足も新田にあり、三間四方の堂にて南に向ふ、本尊は霊像なりとて見ることをゆるさず、前に鳥居をたつ、村民四郎左衛門が持ちなり」とある。
そして、この本殿内には石造舟型の不動尊像があり、背面下面の銘文からは、人間郡安松の長源寺の住僧宝応が元禄十二年(一六九九)四月に寄進したことが記されており、この頃には確かに南秋津に不動堂が位置していた。南秋津村下組の鎮守として「秋津のお不動様」と呼ばれ親しまれ多くの参詣者があり、緑日はとても賑わったとのことです。尚、当社の例大祭は七月二十八日ですが、この日は不動明王の縁日であり、かつて不動堂だった時の名残をそこに見ることができます。

本殿再建時期
文化財専門委員会の調査によれば、現在の本殿は文政四~五年の間(1821~22)あるいは文化七年(1810)に本殿が再建されたと思われる。
社殿は一間社流造りの本殿に三間四間の覆屋をかけています。
また、本殿の彫り物の正面と側面には、司馬温公のかめ割、鶴に乗った仙人などきわめて美しく、精巧な彩色彫刻が施されていて、文政再建当時のおもかげは見る人を惹きつけてやみません。





◆庚申堂





◆石灯籠





境内社





◆石像






境内社と石塔

両方とも何を祀っているのかわからなかった。





◆神楽殿





◆御神木





◆力石



石の由来
秋津神往昔,不動尊とよばれていました。
その頃は娯楽も少なかったので若者たちはここに集まってこの石をかついでかくらべをしたり相撲をとったりして楽しんだそうです。
石の目方は
右六十八メ余二五五キログラム
中三十七八一三八キログラム
左三十五人余り一三一キログラム





◆鳥居





場所はコチラ

2023/03/06 日月神社



境内社愛宕神社/御嶽神社/稲荷神社)





◆御神木



御神木と伝説(蜻蛉の寄生木)
秋津村に無理なことばかり云って村人達を困らせていた殿様が居ました。この殿様がある秋の日、家来の者に「蜻蛉を私の年だけ捕まえて参れ」と命じました。扨て神社ですが、当時は御神木の根本に日月大明神の小さな祠があったのです。捕まえた蜻蛉は殿様の年にひとつ足りないところから蜻蛉を日月大明神の祠の前に持っていって「これ祠の主、お前に本当に神としての力があるならば今私の投げつける蜻蛉の塊をこの木の又から別の木にして生やして見せろ、それが出来なければ、お前の祠はとりこわすぞ。それが出来たら私はもう無理はいわぬ」と云い乍ら、その蜻蛉の塊を御神木の欅めがけて投げつけました。
するとどうでしよう。不思議なことに欅の木の又からたちまち榎の寄生木が生えてきました。蜻蛉の塊は無理を云う殿様の願いどうりにこの御神木とは別の種類の木と化し同時に唖となってしまいました。そして二度と無理を云うことが出来なくなったと云う話が伝わっています。





◆力石



力石 三十五貪目(約百三十一キロ)
石担ぎは、江戸時代から明治初期にかけて江戸を中心とする関東各地で行われました。
古来、石には霊力(ふしぎなカ)が惜むと信じられています。
力石を担ぐ時には、先づ神に祈ることでその力を授かったと云われています。
春と秋のお祭り等、村の若者が神社に集まると、カ石により自分の力を試したり、又お互いに力を競い合ったりしたものです。





◆階段





◆鳥居





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2023/03/06 庚松堂霊園(庚申塔)




庚申塔



庚申塔の由緒
その昔持明院に通じる参道は杉の小立ちと木林に囲まれ 春は若葉秋は紅葉の風景でした。小高い丘の北側に友松堂建坪二拾坪ご本尊は薬師如来様をお祀して堂をお守りしました。周りは雑木で囲まれお堂の下の道端に庚申塔が東向祀られ年(回お堂の中で庚申講の御日待ちと言う行事を和初期まで継続しました。昭和二十五年世話人松医者増田源庭先生が屋根葺替え工事をし昭和四十八年お堂が老朽化し解体し木札を発見しそれには「再建文政三乙卯天霜月吉祥日願主上総国出生圓心法師諸世話人中村庄左衛門」と記してあり年代は西歴一八〇九年十一月となっております。庚申塔は山林開発造整のため平成十九年五月吉日に現在の位置に移動安置されました。





六地蔵



六地蔵の教え
人間世界では煩悩が多くて小さい頃から一つ一つ成長をして死を迎へる時に最高の世界、あの世。天に召される。その教えを六つの地蔵様に導びかれて、地獄(戦争の世界)、餓鬼(飢えとかわきに苦しむ亡者の世界)、畜生(動物の世界)、修羅(激しい戦闘争いの世界) 人間(この世)、天上(仏の世界)と導いてくれるのが六地蔵様である。
ご本尊様ご先祖様のお参りと共に六地蔵様をお参りし、お願いしましょう。
南無六地蔵尊と手を合せましょう。





◆入口





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2023/03/06 所沢駅前(モニュメント「トトロの生まれたところ」、所沢駅東口土地区画整理事業竣工記念碑、保健所発祥の地碑、駅前のマンホール)


駅の東側。





◆モニュメント「トトロの生まれたところ」




アニメーション映画「となりのトトロ」は所沢から生まれました。
原作・脚本・監督を務めた宮崎駿監督が、所沢に住むようになったのは1960年代後半。
宮崎監督は、所沢の自然や風土に触れるうちに「となりのトトロ」の着想を得ました。
当初は「所沢にいるとなりのおばけ」と呼ばれていましたが、いつしか縮まって生まれたタイトルが『となりのトトロ』。
最初にアイデアを得てから十数年後の1988年に映画は完成しました。
今、世界中の人々に愛されている「となりのトトロ」には、所沢の草木や風景のイメージが息づいています。
この碑は「となりのトトロ」発祥の地を記念して建立されました。





所沢駅東口土地区画整理事業竣工記念碑






◆保健所発祥の地碑

 昭和五年 米国ロックフェラー財団から我国に公衆衛生技術者教育機関を寄付する意向が示され昭和六年 中央に教育機関の公衆衛生院を置き 都市及び農村地区にそれぞれの臨地訓練機関の保健館を設置することになった。
 その後 この計画案の実施には種々の紆余曲折があったが,昭和八年再び継続されたものである。  昭和九年 当時の内務省内に設けられた公衆衛生技術員養成機関建設委員会は 百余万ドルの予算で昭和十二年工事を完了し 公衆衛生院は日本政府に都市保健館は東京市へ 農村保健館は埼玉県に寄付された。
 これより先 昭和六年内務省から埼玉県へ選定依頼のあった「模範衛生実習地区設置」については所沢町外六箇村が推薦され 農村保健館の受入れ態勢が整えられていた。
 昭和十二年一月四日 本県は所沢町に県立特別衛生地区保健館の設置を告示し 町村組合共同病院内に仮事務所を置き 農村保健館の業務を開始した。
 この年の四月には保健所法の制定があり 奇しくも時期を同じくしている。
 昭和十三年十月十日 農村保健館は所沢町大字所沢に完工落成し 昭和十六年四月一日 農村保健館は保健所法に基づく所沢保健所と改称された。
 昭和三十九年十一月 保健所は現在地に新築移転し 旧所屋は所沢市に移管されて 所沢市医師会立准看護学院等に利用されてきたが,都市計画事業が進むに伴い昔の由緒ある建物等は,近くその姿を消すことになっている。
 わが国の公衆衛生関係者の大多数は 公衆衛生院に学び 保健館及び実践活動の場として研鑽を積まれている。いわば保健館は公衆衛生活動の礎でもあり古里でもあり 現在全国八百五十余の保健所網の起源である。
 ここに農村保健館満四十周年にあたり各地の有志からの浄財を得て,その跡地に記念碑を建て先賢の偉業をたたえ将来の公衆衛生活動の進展を祈念するものである。
 題字「保健所発祥之地」は初代農村保健館長 保健所長であった與謝野光博士の染筆である




◆駅前のマンホール(企業系)







◆駅前のマンホール(所沢キャラクター)




◆駅前のマンホール(ガンダム THE ORIGIN)




◆駅前のマンホール(史跡)

滝の城は太田道灌が15世紀後半に江戸城河越城の中間地点に築城しました・
時代は下り1590年天正18年に豊臣秀吉による、小田原攻めにより浅野長政勢の攻撃を受けて落城しました。現在も往時の遺構が残っています。