2019/07/11 上野散歩 03 旧博物館動物園駅/上野公園噴水/弁天堂/不忍池/下町風俗博物館/摩利支天

東京音楽学校奏楽堂の後は不忍池の方へ向かう。
最後は御徒町の摩利支天へお参りした後、御徒町駅からJRに乗った。



◆旧博物館動物園

こちらは以前の一般公開の時に来たことがある。
2019/02/08 上野散歩 01 旧博物館動物園駅 - ovanの社会科見学




◆上野公園噴水







◆弁天堂



 寛永二年(一六二五)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨琴県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
 当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
 弁天堂は、昭和二十年の空襲で焼失し、昭和三十三年九月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
 本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保三年(1832)と銘のある谷文晃による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は、九月の巳の日で、巳成金という。





■大黒天とは
 このお堂は、豊臣秀吉公が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。
大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり、民問信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(天黒と大国は同音であるため)という考えが生まれて武神から福神へと変化し、広く親しまれるようになりました。打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天のご利益は、開運招福や家門繁栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料の守護神として祀られるようになりました。この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和四十三年に旧位置に再建されました。

■大黒さまの縁日「甲子(きのえね)」
大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に千支を当てはめると最初に当たる日です。そのため物事を始めるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられるようになりました。子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者とみなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲子待(かっしまち)と
言って子の刻(二十三時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし、大黒天を犯るという習慣に通じました。

■辯天さまと大黒さま
辯財天を祭る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。これは、大黒天と毘沙門天と辯財天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を投ける」、辯財天は「美や才能を投ける」福神とされ、六本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具も持っており、合体することでよりご刑益が増えると考えられました。この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閣」となったと伝えられています。
江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」の大黒天は、覚永寺の旧釈迎堂である護国
院に祀られています。



不忍池

ハスだらけだねぇ・・・。





◆下町風俗博物館(04へ)

2019/07/11 上野散策 04 下町風俗資料館 - ovanの社会科見学





◆摩利支天徳大寺



 当山(徳大き)は、江戸時代初めの寛永年間に慈光院日遣上人によって創建され、正式には日蓮宗・妙宣山徳大寺と申します。また、仏教の守護神である開運大摩利尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも称し、下谷広小路(現在の上野広小路)に位置したことから下谷摩利支天とも呼ばれてまいりました。そもそも摩利支天とは、「威光」あるいは「陽炎」と訳され、常に日天に先んじて進み、大自在神通の力を以て昼夜の別なく光を放ち、参詣祈願の面々に「気力・体力・財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」、福寿吉祥開連勝利を誓い給いし、諸天善神中最も霊験顕著なる守護神といわれ、我が国では古来より武士階級からの篤い崇敬を受けてきました。寺宝として奉安する摩利支天像は、江戸時代中期の京都にて霊夢感得された御導像と伝わり、宝永五年(西暦1708)に当山へ安置されました。以来、聖徳太子の御作と伝わる御尊像に開運吉祥の利益を授かろうと、全国よりの絶えざる善男善女の参詣により山門は俄然活況を呈し、いつしかその門前通りは下谷広小路の摩利支天横丁と呼ばれるようになりました。その後、大正十二年の関東大震災、昭和二十年の戦災による火災
類焼によって、堂宇は二度にわたり灰燼に帰しましたが、奉安の御尊像は幸いにもその都度焼失を免れてまいりました。そして終戦後の混乱期、闇市の形成などによる街並みの変化に伴い、移転再建が検討されながらも創建以来の此の地に留まり、昭和三十九年十一月、堂宇再建の悲願が結実され全伽藍の復典果たし、今日の姿に至っております。本堂正面に掲げられる扁額「威光殿」は、威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意として、吉田茂総理大臣の揮毫により寄贈きれたものであります。寛永の時代より凡そ四百年、寺社町として栄えた上野広小路に残る最後の寺院として今日も大摩利支尊天をお祀りし、有縁の清衆の現世安穏、後生善処の浄願を祈念致しております。



石橋稲荷神社



 徳川中期の頃信仰厚い石橋久七と言ふ人がゐて此の地の発展を願って元禄元年稲荷神社を創建した。
其の後附近の地境に争が起り時の奉行大岡越前守が神徳を戴き裁定し収めたと云ふ。時は流れて戦後の混乱期に神社は荒廃衰退したが昭和二十四年火災の際御神体と故事が石に刻まれて神地より出土し犬塚信夫氏が旧建物の二階に安置し多くの人々が厚く信仰した。今回ビル新築に伴い信者の浄財で屋上に再建し守護神として御遷座した。


縁結び地蔵尊



七面大明神



日蓮上人



淫行菩薩





浄行菩薩は親しみを込めて「浄行さん」と呼ばれたり、タワシで洗うところから「洗い仏」など
とも伝われております。
 法華経従地湧出品第十五の中で説かれる、最も上位の四菩薩のお一人で、特に浄行菩薩は昔から病気や怪我を治して下さる善薩として、庶民に信仰されてきました。
 浄行菩薩の傍らに備えてある浄水とタワシで、自分の身体の患部と同じ場所を洗うと良くなる、と昔から伝われております。
 ー心にお題目をお唱えし、心の底から願えば、心の澱(オリ)も取り除かれ、病の苦しみから救って下さることでしょう。





この後は中野駅へ向かうのだが、その前に下町風俗博物館の日記に続く。