2021/01/21 舟渡散歩 04 浮間ヶ原桜草圃場/浮間氷川神社/舟渡二丁目アパート/舟渡二丁目児童遊園/舟渡氷川神社/板橋区立ものづくり研究開発連携センター

浮間公園周囲を散策後は西へ移動。



◆浮間ヶ原桜草圃場



一般公開期間 4月初旬~下旬
公開中は、氷川神社境内内において桜草等の即売会も行われます。
公開時間 午前9時~午後4時30分(最終日は午後3時まで)



浮間ヶ池の東側(北区側)は、かつて浮間ヶ原と呼ばれていました。江戸から大正まで浮間ヶ原をはじめとする荒川沿いの原野は、氾濫でもたらされた沃土の上にサクラソウの群生地が広がり行楽地となっていました。しかし、荒川の流路が変更され、都市化が進むにつれ、サクラソウは姿を消してしまいました。地元では、浮間ヶ原にサクラソウを復活させようと桜草保存会を結成、桜草園場で栽培と公開を続けています。

我が国は草もさくらを咲きにけり 小林一茶

描かれた浮間ヶ原のサクラソウ
田山花袋『一日の行楽』(大正 7年)より
 川を渡ると、浮間ヶ原である。一面、桜草で、丁度毛氈でも敷いたやうである。頗ぶる見事である。
 で、日曜、 土曜などには、東京から女学生達が沢山にやつて来る。女学校で、運動会に生徒をつれて来たりするので、 桜草は採られ、束にされ、弄ばされて、娘達の美しい無邪気な心を飾る。花の中にゐる大勢の娘達一実際絵に書いた美しいシーンである。

永井荷風葛飾土産』(昭和 25 年)より
 わたくしが小学生のころには草花といへばまづ桜草くらゐに止って、殆ど其他のものを知らなかつた。 荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあつたのを聞きつたへて、草履履きで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区の陋巷となり、桜草のことを言ふ人もない。






◆浮間氷川神社


猿田彦社/第六天社/八王子社/稲荷社/御嶽社








◆舟渡二丁目アパート



都営住宅。
まだ人は住んでないようだね。






◆舟渡二丁目児童遊園






◆舟渡氷川神社



氷川神社と十度宮
 御祭神は、須佐之男命と奇稲田姫命です。
 舟渡の地 には、 往古より十度宮と呼ばれる石桐が犯られていま し た 。「新編武蔵風土記稿」によると 、 元は旧蓮沼村の西南の辺りで犯られていました が、洪水で十度流されて、そのたびに同じ場所(舟渡二ー八)に流れ着いたことから、村人らは 、これを神意ととらえ 、 流れ着い た場所に塚を築き 、 榎を植えて、そこに石洞を遷し、併せて十度宮と呼ぶようになったといいます。石洞の正面には「奉修造立氷川大明神御宝前」、左面には「万治二年六月十五日」、右面には「寛保三葵亥年十二月吉日建立 武州豊島郡蓮沼村別当金剛院」と刻まれています 。 これにより 、万治二年(1659)に勧請され、その後寛保三年(1743)に当社の別当金剛院により再建されたことがわかります。
 昭和八年(1933)、中山道の拡幅工事が行われると 、十度宮は蓮根氷川神社の境内に遷され、しばらくの間そこで祀られていました。その後、地元の声を受けて昭和四十一年に当社が創建されると 、十度宮も現在の場所へ遷されました。


十度の宮



「十度の宮」の由来
 この舟渡の地には、昔から「十度の宮」といわれた笠塔婆型の石祠が祀られていた。
 「十度の宮」の語源について「新編武蔵風土記稿」に「・・・古へ村内西南の方にありしが、爰に塚を築き榎を植えて社を移す。土人今も「十度の宮」と稱せり」とある。
 この石祠は洪水のため何度も流されていたが、十度この地(現在舟渡二の八付近)に戻って来たのて、その名が生まれたといわれている。

「十度の宮」の石祠
右面 万治二巳亥年六月十五日
西南 奉修造立氷川大明神御宝前
左面 寛保三発亥年十二月吉日造立 武州豐島郡蓮沼村別當金剛院






板橋区立ものづくり研究開発連携センター

中小企業に工場設備を貸し出す場所という理解でいいんだろうか。
ものづくり研究開発連携センター(旧工場ビル)のご案内|板橋区公式ホームページ








続く。