2021/02/23 赤羽散歩 01 本蓮沼駅/大原歩道橋/蓮沼氷川神社/南蔵院/蓮沼公園/北区立島下ふれあい館/豊川稲荷神社

24時間勤務アケで、都営三田線本蓮沼駅からJR赤羽駅まで歩いた後に、また本蓮沼駅まで歩いて戻った。



本蓮沼駅東側を散策。
どんどん東へ向かう。



本蓮沼駅

スタートの都営三田線本蓮沼駅









◆大原歩道橋

下は中山道









◆蓮沼氷川神社



 当社は古来蓮沼村の鎮守で、御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。慶長年間(1596~1615)に現さいたま市氷川神社から、蓮沼村字前沼(現在の浮間舟渡駅の西側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられています。
 蓮沼村は、享保年間(1716~1736)に荒川氾濫の被害を受け、高台にある現在地に移動しました。その時に、当社も新井三郎衛門が村人とともに、前沼から現在地に移転したといいます。また、当社の別当寺であった南蔵院も、同様に移転したと伝えられています。
 明治七年には村社に指定されました。
 彼岸前の日曜日に行われる秋祭の際には、湯花神楽(ゆはなかぐら)が奉納されています。


稲荷社



楽殿


境内社








南蔵院



 当院は、宝勝山蓮光寺と号する真言宗寺院で、ご本尊は十一面観世音菩薩です。
 開山は、寺歴では宥厳とされていますが、「新編武蔵風土記稿」では、開山を宥照、開基を蓮沼村の名主新井家の先祖、新井三郎盛久としています。
 当初、南蔵院は荒川低地にあった「道生沼(どうしょうぬま)」の畔(坂二丁目二四番地付近)に建っていましたが、度重なる洪水によって現在地に移転したといわれています。この移転伝承は、隣接する氷川神社や、蓮華寺(蓮根一丁目 一〇番)と同様のものであることから、当該地域における歴史的環境の変化と、村の対応などを考えていく上で注目されます。
 なお、移転の時期は、長らく享保期(1716~36) とされてきましたが、それ以前の正保期(1644~48)に作成された「武蔵国図」を始めとする絵図類には、 すでに蓮沼村南蔵院などが現在の位置に描かれていることから、その時期は大きく遡るものと考えられます。
 また、享保七年十一月二十五日に行われた八代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩りに際しては、当院が御膳所となっています。
 境内にある庚申地蔵は、承応三年(1654)に庚申待講中が造立したものです。また、安永六年(1777) と文化元年(1804)に建立された南蔵院石造出羽三山供養塔の台座には、蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員七〇名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっています。これらは、 区の有形民俗文化財に登録されています。



十一面観世音菩薩
 別名十一面観自在菩薩・大光普照観世音菩権と申します。十一の仏面はひとびとの愚痴を断ち、仏の位を得させる功德を表しております。
 正三面慈悲の菩薩面は、すなおに仏さまの教えにしたがって行くひとにたいして慈心をもって教化し、楽を与え、左の憤怒の三頂面は悪いことをしたり、仏さまの教えを信じようともしないひとにたいしてい悲心でおこり叱って、その心をあらためとせて苦を抜き、右の牙を出している白牙三面は、よい行いをしているひとに、さらに仏さまのみちにすすませようと、ほめておられ、うしろの大笑いをしている笑怒一面は、よいことも悪いこともたいしてできず!、いつもふらふらしているひとに、悪に向わせないように、そして頂上の仏面は、仏さまの教えにしたがいひとびととともにあゆんでゆこうと志しているひとにたいして、教えを説いて仏道をきわめさせるためてす。これら十一のお顔は、みなこの観音さまの慈悲の心をあらわしております。持ち物は、左手に蓮華の 入つた水瓶をもち、右手は与願という印を結んさおられ、全容金色のこ本尊さまです。
 この観音さまの信仰は、古く飛鳥・天平時代からさかんに信仰され、自分自身を正し、この観音さまを礼拝供養し一心に称名すれば、憂い悩み、苦しみ をなくし、諸病を除き、障りや災難を減し、 横死をなくし、悪魔や鬼神のたたりを除きへ開運招福に財宝を獲得してひとびとを救ってくださるというお誓い からです。また臨終のときには、この観音さまか現われて、密厳浄土に引導して下きるという功徳がお経に説かれております。
  またこのご本尊さまのほか、行基菩陸がお作りになつた阿弥陀如来坐像、弘法大師が天長年中、相州江の島で一万座の護摩修行をなさったときの灰でご自作なされた、厄除大師が奉安されております。


不動堂



 五大明王・八大明王(降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜又・烏枢沙摩・愛染・大元帥明王)の主尊で、大日如来さまが一切の悪を退治するために、念怒の相に化身したとされる明王さまです。別名不動威怒明王・無動尊と申します。 私たちの煩悩や悪魔・災いから救わずにはいられない大慈悲心に満ち、つねに仏ごころをおこさせて導くという役目をもつておられます。
 髪は蓮の形に結んで頂に乗せ、弁髪と呼ばれる髪を左肩にたらし、両眼を見開き、口もとはかみしめて右は上、左は下へ牙をだし、下半身は裳を着け、 半身は条帛と呼ばれる布をまとい、盤石の上にお坐りになつておられます。身色は青黒で降魔の義を表し、背後の火焰は火がすべてのものを焼き尽すように、 ひとびとの迷いや欲望を焼き尽し、またすべての災難の種を焼いて願いをかなえて下さるという、願心をあらわしておいでになります。他に矜迦羅・制叱迦両童子を率いる三草像です。
 持ち物は、右に煩悩を断ち切る利剣を握り、左手には覇索をもつておられます。言うことを聞かない敵をしばりあげ、ときにはその命をも断つというもの でありますが、それと同時に自分の欲望や迷いをたち切り、勝手気ままになりがなおのれの心をしばりつけるという剣と紐でもあります。
 お不動さまの信仰は、仏教"動"の世界です 動きをおさえるのではなく躍動する力を発揮させる明王です。故に古くからおおぜいのひとひとから信仰されてきているのです。一心に祈れば何ごとによらず一つは必ずかなえて下さる明王さま、もしちょっとでも修行をおこたれば仏罰たちどころにくだるという、有難いかわりに又おそろしい明王さまです。堅固不動の心、諸願成就、災 難、厄難、病難等すべての難を除き、財富を得、商売、事業の繁昌、福徳円満等の功徳がおおくの諸軌に説かれております。


地蔵堂



 別名悲願金剛・悲愍金剛・与願金剛と申します。大地のように安定し、万判を育てる力と心をもち、釈迦の入減後、彌勒仏が現れるまでの無仏の時代に世の姿(比丘形)でこの世に現れ、六道のひとびとを救い、みんなを救ってから自分は仏になることをご誓願にしている仏さまです。
 地蔵の名のおこりは、ひとびとの苦しみや悩みをとり除き、大地にまいた種が成育し収穫できるように、また地中にいろいろのたからものを蔵し、ひとび との役にたち、繁栄させるように、そして、死んでいった後の世までも慈悲の手をたれて下さると言う、ひとびとをいつくしむ心を無限にもっておられるところから、地蔵菩薩という名がつけられました。
 人間はこの世での行いの報いとして、死んだのち六つの世にそれぞれ生まれます。これを「地獄」「餓鬼」「畜生」「阿修羅」「人間」「天上」の六道といっていますが、ことにこのうちの、地獄・餓鬼・畜生の三つの世界は苦しみの責苦にあうだけの処なのですか、このようなところにもお地蔵さまは、左手に宝珠をのせ、右手に錫杖をもって、いつでも、どこでも、苦しみ救いを求めているひとびとのところに出むいて行き、懺悔改心させ救って下さる慈悲深い仏さまです。
 お地蔵さまをもっと身近かなものにしたのは、賽の河原のかなしい和讃です。親子の縁がが薄く幼なくして死んだ子供らや、まだこの世の陽の目をみないうちに、母親の胎内から去っていった水子、母に名を呼ばれず、手を合すことすら知らないで死んで行った水子たちの物語です。
 お地蔵さまは、新たに生れた子供を護り、その寿命をのばし、若死、そしてすべてのひとびとの病難、悩み等を除いて下さるという功徳がお経に説かれております。
 また山門内右側の六体のお地蔵さまは、「六地蔵」と申しあげ、六種に身をかえてそれぞれ六道のひとびとを救って下さるお地蔵さまたちです。


お地蔵様


庚申塔


六地蔵・他


山門







◆蓮沼公園







◆北区立島下ふれあい館

右側に写っているのは下記の豊川稲荷神社。
集会室などが借りられる北区の施設。
ふれあい館(利用案内)|東京都北区








豊川稲荷神社






続く。