2022/03/07 神保町散歩 02 さくら通り/日本教育会館/共立女子大学/神田神保町三丁目/神保町駅/神田本屋街散歩/ブックハウスカフェ

神保町駅付近まで北上。
その後は九段下駅周辺エリアへ移動。




◆さくら通り

商店街♪










日本教育会館

一般財団法人 日本教育会館(にほんきょういくかいかん、Japan Education Center)は、日本教育会館を維持管理する法人。元文部科学省所管。』
『1950年4月1日に設立。戦前の社団法人日本教育会から、教育会館の建物、附属財産を引継ぎ、これを維持管理することを主たる目的としている。施設としての教育会館は東京都千代田区一ツ橋2-6-2にあり、同財団法人の所在地も会館内にある。
現在の建物は、1977年竣工、地下2階地上9階である。
会館建設の趣旨が、教職員の資質、活動の向上と研鑽にあったので、この会館の大小さまざまな研修室ホールは教員の研究会、研修会などに主として使われるものである。なお、宅地建物取引士法定講習の会場などにも、使用される[3]。最大の一ツ橋ホールは、800人強の定員がある。また同施設内には、親と子と教職員のための教育相談室が常設されている。 』
日本教育会館 - Wikipedia









共立女子大学



「小出 屋敷」の史跡マークが二つあるので調べてみた。



古地図で見ると小出信濃守英教とあった。
『小出 英教(こいで ふさのり)は、丹波国園部藩9代藩主。吉親系小出家9代。』
肥前国大村藩主・大村純昌の八男として生まれる。正室は小出英発の三女。
天保13年(1842年)4月15日、園部藩主・小出英発の婿養子となる。天保14年(1843年)9月20日、英発の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・加賀守に叙任する。後に信濃守に改める。天保15年(1844年)4月、常盤橋門番を命じられる。
安政2年(1855年)10月10日、養父に先立って27歳で死去し、跡を長男の英尚が継いだ。 』
https://www.serbailmu.live/host-https-ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%87%BA%E8%8B%B1%E6%95%99









神田神保町三丁目

 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねていました。古文書や古絵図をひもとくと、石川摂津守(いしかわせっつのかみ)、井上遠江守(いのうえとおとうみのかみ)、丹波園部(たんばそのべ)藩小出(こいで)家の上屋敷(かみやしき)といった名前が見てとれます。
 そんな武家のなかでも、朝廷や公家に関連する儀式などを担当した高家(こうけ)旗本の今川家は、ひときわ目を引く存在だったようです。屋敷前の通りは今川小路(いまがわこうじ)と呼ばれ、明治五年(1872年)には、この小路の名前から、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目という町も生まれています。
 また、日本橋川に架かる「俎橋(まないたばし)」は、江戸時代はじめのころから伝わる名前です。当初、まるで俎(まないた)のような木の板を渡しただけの橋であったことから、この名前が付いたとされています。
 そんな俎橋周辺について、森鴎外(もりおうがい)の小説「雁(がん)」のなかにこんな一文があります。「今川小路の少し手前に御茶漬という看板を出した家がその頃あった。二十銭ばかりでお膳を据えて、香(こう)の物(もの)に茶まで出す。末造はこの家を知っているので、午(ひる)を食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。そこを通り過ぎると、右へ廻(まわ)って俎橋の手前の広い町に出る。」
 江戸時代には武家地だったこのあたりも、明治時代後半には活気あふれる商業地に生まれ変わり、いまの町の原型が形づくられていきました。
 昭和九年(1934年)、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目の一部が合併して神保町三丁目(じんぼうちょうさんちょうめ)となり、昭和二十二年(1947年)、神田神保町三丁目となりました。










神保町駅

東京メトロ半蔵門線神保町駅









◆神田本屋街散歩

みっけ♪



近くにあった地図









◆ブックハウスカフェ

なんだか面白そう!










続く。