

高橋是清邸は、 経済通の政治家として、 明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。 是清は、 赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約 6,600平方メートルを購入し、1902年(明治35) に屋敷を建てた。栂普請の主屋は、 複雑な屋根構成をもっており、 また当時としては高価な硝子障子を、縁回りに多量に使用している。 赤坂にあった頃は、 主屋のほか3階建ての土蔵や、 離れ座敷がある大きな屋敷だった。
1936年(昭和11)、 是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒された (2.26事件)。 敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園となった。 是清の眠る多磨霊園に移築され、 休憩所として利用されていた主屋部分が、 この場所に移築された。
建築年 1902年(明治35)
旧所在地: 港区赤坂七丁目

高橋是清邸平面図

高橋是清 家族と住居の系譜

高橋是清は、2階の庭に面した二部屋を書斎と寝室に使っていた。是清の娘・眞喜子氏によると、 書斎には大きな洋机があり、 そこで仕事をしたという。 また、 寝室の床の間の前には文机が置かれ、 就寝前にその机で習字をするのが晩年の習慣であったという。
是清は1936年(昭和11) 2月26日早朝、 青年将校によって暗殺された (二・二六事件)。 兵士10数名が寝室になだれ込み、 白の寝巻き姿で布団に座っていた是清に銃弾をあびせ、軍刀で切りつけた。 即死であった。
是清は市民から「達磨さん」 と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には、別れを告げる人々が大勢参列した。
波乱に満ちた83年の生涯であった。

高橋是清年譜
高橋是清木像


Wooden statue of Korekiyo Takahashi
1914年(大正3)
米原雲海/作 江戸東京博物館/所蔵
1911年(明治44) に高橋是清が日本銀行総裁に就任した際、前職(横浜正金銀行頭取) の部下の有志によって送られたもの。 当時人気の彫刻家米原雲海の手により、 礼装姿で書籍を持つ是清が写されている。









