2017/12/09 小田原散策 02 史跡跡/小田原城/駅前イルミネーション/北条氏政・氏輝墓所/ぐいのみオハシ

お友達と合流後、お昼ご飯を食べて小田原城へ!




◆史跡跡


日向屋敷

 地名の由来は、慶長十九年(1614)、小田原城主大久保隣が改易(かいえき)となった時、その夫人である「日向御前」が関居した屋敷跡があったためといわれている。
 江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった。




弁財天

 江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」とよんでいた。しかし、元禄十三年(1697)に蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に
六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。



弁財天

上の弁財天と違うところにあったが、同じ内容が書いてあった。




小田原城

北条氏の居城というイメージが強い。
調べると平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったとのことなので、かなり古くから拠点となった場所のようである。






天守閣からの眺め








小田原城イルミネーション







まだまだ見たいところがたくさん残ったので、また来ようと思う。




◆駅前イルミネーション

このキャラクターなんだろう?
駅の東口からちょっと歩いたところにあった。





北条氏政・氏照墓所




 北条氏政は、北条氏四代の領主、氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。
 両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。(現在、永久寺所有)
 その後設置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633〜1685)北条氏追福のため整備されました。大正十二年(1923)の関東大震災墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。








幸せの鈴

箱の中の「鈴」に、民を思う領主の優しい心が、きっと宿っています。
ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、会場を決意されたと伝えられています。
願い事をかけて「鈴」を持ち帰り、かけた願いがかなったら、「幸せの鈴」を結びに来てください。
「幸せの鈴が」いっぱいになれば、ここに眠る領主への何よりの供養となることでしょう。






◆ぐいのみオハシ

飲んで帰りました。
美味しかった♪




お城のほかにも見たいところがたくさん残ったので、あと3回くらいは来たい!
美味しそうな食べ物屋さんもたくさんあったので、食べ歩きもしたいなあ♪