環七の東側を南下。
御殿山公園だけ環七の西側にあった。
当社は往昔、白鬚神社と称し天正丙子四年に、畏くも猿田彦命 ( 白鬚 )、建御名方命 ( 諏訪 )、宇迦之御魂 ( 稲荷 ) の三社を勧請したるに始り、ゆえに三社明神と称し、その工大無辺の御神徳は氏子崇敬者の上に遍く日夜加護せらる。
昭和十八年九月、旧青戸四丁目に鎮座せる白山神社 ( 伊弉冉命 ) を当社に合祀申し上げ、御社名を青砥神社と改称し、ついで昭和三十五年旧青戸町内に鎮座せる高木神社 ( 高皇産霊神 )、八幡神社 ( 誉田別尊 )、北野神社 ( 菅原道真公 )、葛葉稲荷神社 ( 倉稲魂命 )、水神社 ( 弥都波能売神 ) をも合祀申し上げ今日に至る。 本殿及び拝殿は、大正七年改築したものであるが、老朽甚だしく青戸、白鳥両町の総鎮守として、御神威に添い奉らざる自体に逢着し、氏子多数の要望により、昭和三十六年沿い改築運営委員会を結成して、本殿拝殿の改築を完成し、其の後青戸神社講を組織し、同講役員の献身的奔走により氏子崇敬者多数の参道を仰ぎ、社務所の竣功及び境内整備の完成を見るに至れり。
これ因より御神徳によるとはいえ、氏子崇敬者の至誠なくしては能くこのことあるべからず。因って茲に篤信を録して記念とす。
参集殿/神楽殿
◆葛西城址公園
◆御殿山公園
上記、葛西城址公園は水戸街道を挟んだところにあった。
葛西城跡
葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(1538)二月には、北条氏綱によって葛西城が落城したという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。
後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。
この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和四十年代後半のことである。昭和四十七年から発掘調査が行われ、その結果、主廓を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
東京都内には中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないことから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である。
発掘された葛西城
葛西城は中川右岸に治った標高1~2m前後の微高地上に占地し、 その範囲は育戸8丁目宝持院付近から育戸7丁目慈恵医大青戸病院付近におよぶものと推定される。
葛西城吐は昭和47年(1972)から環状7号線道路建設に伴い発掘調査が実施され、戦国時代をはじめとする陶磁器や漆器椀等の木製品を多量に出土した。 葛西城から出土した多量の遺物は、 今まで古文書や絵巻物でしか想像できなかった戦国時代像を研究する上で、欠くことのできない貴重な資料としてその名を全国的に知られている。
葛西城の立地する葛西地域は、中世において秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって治められ、私領の一部は伊勢神宮に 「葛西御厨」として寄進されている。葛西城の築城がいつ頃なされたかは古文書からも定かではないが、中世におけるこの辺一帯の政治情勢や出土した遺物から、15世紀中頃と推定される。 15世紀末、伊豆、相模方面を舞台に台頭してきた
後北条氏は北楽早雲の子、北条氏綱によって関東進出が企てられ、天文7年(1538)葛西城は氏綱の手に陥落、下総に勢力を張る足利義明に対する構えとして整備されたことが知られる。その後、 葛西城は16世紀末まで存続するが、天正18年(1590)小田原の役における後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も落城し、中世城郭としての役目を終えるのである。
近世初頭、德川 家康の江戸開府後、葛西城跡地には青戸御殿が建てられる。青戸御殿は秀忠、家光の三代にわたって鷹狩等に利用された後、明暦3年 (1657) 頃取り壊されたといわれている。
また、葛西城は中世の城館跡として名を馳せているが、葛西城の下には今から1600年程前の古墳時代の住居跡や井戸跡、 多量の土器等が発見されており、当時のムラが埋没していることがわかっている。 土器の中には遠く東海地方から運ばれてきたものがあり、当時の水上交通の活発さを窺わせている。
このように葛西城吐は、 弥生古墳時代たら中世 近世に至る各時代の責重な資料を遺存している複合遺跡であり、葛飾区のみならず、 東京低地の歴史を研究する上で欠くこと
のできない文化遺産である。
◆東京慈恵会医科大学葛飾医療センター
手前の公園が上記の「青戸六丁目さくら公園」
続く。