2018/05/02 西片散歩 03 山極勝三郎医学博士住居跡/夏目漱石・魯迅旧居跡/新坂(福山坂)/丸山福山児童遊園/椎木稲荷/樋口一葉終焉の地

やっと坂エリアを離れる。
水道橋に向かって南下する。



◆山極勝三郎医学博士住居跡




 東京帝国大学教授。病理学者。文久3年〜昭和5年(1863〜1930)。人類の敵ともいうべき”癌”の本態を解く鍵となった化学物質による発癌実験に、大正4年(1915)世界で初めて成功した。
 博士は、長野県上田市の出身で東京帝国大学 からドイツに留学。ベルリン大学の著名な病理学者ウィルヒョー(R. Virchow)の影響をうけた。
 帰国後、市川厚一 助手の協力を得て、長期間にわたってウサギの耳に石炭タールを塗り続ける実験で皮膚癌を作ることに成功し、その慢性刺激説を証明した。世界最初の画期的な実験的研究として、その成果は高く評価され、博士の名は世界中の研究者にひろく知られた。
 病弱であった博士は、ここから人力車で、赤門内の研究室(現在医学図書館敷地)に通って研究を続けた。実験の成功を喜び自ら詠んだ句


”癌出来つ 意気昂然と二歩三歩”
             曲川




夏目漱石魯迅旧居跡




 通称「猫の家」(文京区指定史跡「夏目僧でき旧居跡」向丘2-20-7)に住んでいた夏目漱石は、明治39年(1906)12月、ここに転居した。「猫の家」時代の漱石は、「吾輩は猫である」(明治38)、「倫敦島」(同)、「坊ちゃん」(明治39)、「草枕」(同)などを立て続けに発表し、一躍文壇で有名になったが、当時は東京帝国大学や第一高等学校などで教師をつとめる、いわゆる「二足のわらじ」の作家生活であった。
 この地に転居した漱石は、明治40年6月に「虞美人草」を発表、連載するが、これは漱石がすべての教職を辞め、職業作家として執筆した第一作目であり、この地は漱石にとって新たな一歩を踏み出した地である。
 漱石は、ここに約9か月住んだのち、明治40年9月に早稲田南町に転居した(漱石山房)。その後、明治41年4月、この地には魯迅が弟・友人ら5人で生活をするために移り住み、ここを「五人の家」という意味で「伍舎(ごしゃ)」と称した。魯迅らは、10か月後に同町内の他所に転居した。
 漱石魯迅ともにこの地に住んだ期間は短いが、日中両国の近代文学を代表する文豪が相次いで居住した場所である。



◆新坂(福山坂)



 『新撰東京名所図会』に,「町内(旧駒込西片町)より西の方,小石川掃除町に下る坂あり 新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる,新しく開かれた坂ということで,この名がつけられた。また,福山藩にちなんで,福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は,区内に6つある。
 坂の上一帯は 学者町といわれ 夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が,旧丸山福山町で,樋口一葉の終焉の地でもある。




◆丸山福山児童遊園


旧丸山福山町

 古くは、備後福山藩 主の阿部氏の中屋敷であったが、旗本の武家地になった。
 明治5年、新たに町名をおこすとき、この辺の台地の呼び名の丸山と、阿部氏の領地の福山とを併せて丸山福山町とした。
 樋口一葉 がかつてこの町に住み、『にごりえ』、『大つごもり』、『たけくらべ』や『十三夜』などの名作を残した。そして、明治29年、24歳の短いが輝かしい生涯を閉じた。
 「隣りに酒うる家あり。女子あまたいて、・・・遊び女ににたり。常に文書きて給われとて、わがもとに来る。ぬしはいつも変りて、そのかずはかりがたし。・・・」
(一葉日記『しのぶぐさ』)




◆椎木稲荷大明神



「小石川小十人町、番屋の跡」という説明板があった。


小石川小十人町、番屋の跡

徳川幕府時代、万治年間(1658〜61) ここら周辺は小十人町及びその番屋 の跡地であった
小十人町は身分こそ低いが徳川将軍 家が江戸から他の地へ行く場合 身辺警護にあたった由緒ある家柄の持主達が住んでいた
なお角地には番屋が建てられており豊川稲荷が祭られていた これは豊川稲荷を信仰していた大岡越前守 の影響であろうかと推察される
大岡越前守は その下屋敷を小石川高田豊川町(日本女子大学隣)にもっていたことを附記しておく



樋口一葉終焉の地



 一葉の本名は奈津 なつ、夏子とも称した。
 明治5年(1872)東京都内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、24年の短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。
 明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。
 一葉はこの家を懐かしみ"桜木の宿"と呼んだ。
 父の死後戸主となった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家・平井 桃水(とうすい)に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。
 終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は六畳二間と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、"奇跡の二年"と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。




 花ははやく咲て散がた はやかりけり あやにくに雨風のみつヾきたるに かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持 参いよいよ転居の事定まる 家は本郷の丸山福山町とて阿倍邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず 家賃は月三円也たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも わづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ


上一葉女史の明治廿七年四月廿八日五月一日の日記より筆跡を写して記念とす


この文学碑は、昭和二十七年九月七日に建てられた。日記以外の表面の文字と裏面の文字は、平塚らいてうの書。裏面には、岡田八千代の撰文による一葉の業績の概要と、興陽社社長・笹田誠一氏の篤志によってこの碑が建てられたことが記されている。昭和二十七年八月上旬、世話人岡田八千代平塚らいてう幸田文野田宇太郎(日記文選定)、井形卓三(文京区長)とある。



続く。