2022/11/02 夏目漱石誕生の地碑


前にも来ている。
2018/01/15 神楽坂散歩 04 八兵衛稲荷神社/感通寺/池立神社/本松寺/夏目坂/夏目漱石誕生の地/喜久井町戦災者供養観音像 - ovanの社会科見学






 夏目漱石 (本名金之助)は、慶応三年一月五日(一八六七年二月九日)に、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。 夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、 喜久井町の町名は夏目家の家紋 「井桁(いげた)に菊」(正式には「平井筒(ひらいづつ)に菊」) にちなんで名づけられ、生家前の夏目坂も夏目家からとられたという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家にもどり、再び四谷太宗寺門前の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原姓のまま実家にもどり、二十一歳のとき夏目家に復籍している。
 この地での幼少期のことは、大正四年(1915)に書かれた随筆 「硝子戸の中」に詳しく記されている。
 この記念碑は昭和四十一年(1966)に漱石生誕百年を記念して新宿区が建てたもので、題字は漱石の門下生安倍能成(あべよししげ)の筆。





以前の説明版(2018/01/15撮影)

 夏目漱石(本名金之助)は、慶応三年(1867)一月五日に、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末っ子としてこの地に生れた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋「細井筒(ほそいつつ)に菊」に因んで名づけられ、夏目坂も夏目家に因んで命名されたという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家にもどり、再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原性のまま実家に戻り、二十一歳のとき夏目家に復籍している。
 この地での幼少期のことは、大正時代に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳しく記されている。
 この記念碑は昭和四十一年81966)に漱石誕生百年を記念して新宿区が建立したもので、題字は漱石の弟子安倍能茂(よししげ)の筆になる。






夏目漱石は慶応三年(1867年)一月五日(陽暦二月九日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町1)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者文豪として不滅の業績を残し、大正五年(1916年)十二月九日新宿区早稲田南町7において没す生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ






「影参差 松三本の 月夜かな」 漱石

 私の家は綺麗に取り壊されて、あとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。・・中略・・三本の松法、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児の様になってゐたが、何処か見覚へのある
やうな心持を私に起させた。
 昔乚「影参差 松三本の 月夜かな」と詠ったのは、或いは此松の事ではなかったらうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
『硝子戶の中』上拔粹






Q.10
夏目漱石が名作を世に送り出し、最後を過ごした家の跡地に建てられた今年5周年を迎えた建物はなんでしょう。
漱石山房記念館  ②新宿歴史博物館  ③早稲田大学大隈記念講堂


















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2018/01/15 記事アーカイブ


夏目漱石誕生の地




 夏目漱石(本名金之助)は、慶応三年(1867)一月五日に、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末っ子としてこの地に生れた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋「細井筒(ほそいつつ)に菊」に因んで名づけられ、夏目坂も夏目家に因んで命名されたという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家にもどり、再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原性のまま実家に戻り、二十一歳のとき夏目家に復籍している。
 この地での幼少期のことは、大正時代に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳しく記されている。
 この記念碑は昭和四十一年81966)に漱石誕生百年を記念して新宿区が建立したもので、題字は漱石の弟子安倍能茂(よししげ)の筆になる。