2020/04/23 山王散歩 05 室生犀星旧居跡/藤浦洸・榊山潤旧蹟跡/馬込銀座会/山王商店会・ジャーマン通り/蘇峰公園/尾崎士郎記念館/金子屋敷跡

まだまだ環七やや東側を北西へ。


室生犀星旧居跡

『馬込日記』谷中編
 室生犀星が馬込谷中へ越してきたのは昭和三年のこと。近くの文士たちとの行き来が多くなり、特に朔太郎とは親しくなって
11月25日「萩原と交際するごとに酒 のみになること受け合いなり」
と記しています。また谷中は昔沼田だったので健康上環境抜群というわけにはいかず
11月30日「朝子風気味、・・・夜、朝巳もまに咳をする」
と、子供たちの健康を気づかっています。
その上、この家は三回も泥棒に入られたことがあると聞いて、強カな番犬を飼うことにしました。
12月月14日「ブルドックは馬鹿のごとき面相なれど「 記憶カ深し」
家族サービスも怠りません。
12月22日「クりスマス・ツリイ、タ方千足屋より配達し来る。子供ら大に喜ぶ。この贈物は要を得たるがごとし」
やがて年も押し迫り、馬込で初の年越しの心境は
12月31日「貧乏のなかに正月を迎うでし、又一興」





藤浦洸・榊山潤旧蹟跡






工事中で、じっくり見ている暇が無かった・・・・・。




◆馬込銀座会

商店街♪



全てを確認したわけではないが、商店街名がかかれた柱はこれしかなかった。
WEBで調べると、たまたまだったみたいでもっと広い商店街のようだ。
馬込銀座会 | おーたふる大田区商店街ナビ(大田区の魅力的な商店街を紹介)




◆山王商店会・ジャーマン通り

商店街♪
google mapには「ジャーマン通り」とある。
現地には二つの看板がある。





◆蘇峰公園



廿三夜(にじゅうさんや)碑

この石碑は陰暦八月 二三日の夜、月待ちをすれば、願いごとがかなえられるというニ三夜待ち信仰に由来するものです。
上部には信仰のシンボルとして日輪と月輪が彫られているのも特徴です。
裏面には、 明治十七年(1884)八月二三日と世話人八名の氏名が刻まれています。



山王草堂記念館



ここは以前来たことがある。
コロナウィルス感染対策のため休館していた。
2016/05/14 part2 山王草堂記念館 - ovanの社会科見学



徳富蘇峰銅造



蘇峰ゆかりの建築 位置図



徳富蘇峰と山王草堂邸内の建築

 徳富蘇峰(1863~1957)は大正十三年(1924)、この地に居宅を建て、山王草堂と称して昭和十八年(1943)熱海伊豆山に移るまでここに起居した。邸内には母屋の他に三つの建築が建っていたことが知られており、それぞれ成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)、一枝庵(いっしあん)、牛後庵(ぎゅうごあん)と名付けられていた。それら蘇峰ゆかりの建築について記す。

成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)
 蘇峰の収集した和漢書十万冊に及ぶ書籍類を収蔵していた、鉄筋コンクリート造三階、地下一階の書庫。大正九年(1920)、山王草堂に先立って着工され、大正十三年(1924)、山王草堂と同時に落成した。
 文庫には蘇峰が長年苦心して収集した収蔵品があり、中には国宝二点、当時の重要美術品(現在の重要文化財)七十二点が含まれていた。それらは蘇峰によって体系的に整理され、わが国の文化史研究の資料として非常に価値の高いものであった。この文庫の存在によって多くの資料が緻密に分類され、蘇峰の「近世日本国民史」執筆に大いに役立ったと考えられる。
 後にそれらの書籍類は主婦の友社に譲渡され、現在は千代田区にあるお茶の水図書館に収蔵されている。「成簣堂文庫」の名称の由来は、文政元年(1818)、江戸時代の歴史学者頼山陽(らいさんよう)が肥後来遊の際、山陽から蘇峰の祖父徳富美信(とくとみよしのぶ)に書き与えられた「成簣」 (せいき=中国の古典「論語」の中の言葉で竹の箕(み)に盛った土の意)から採られたものである。

一枝庵(いっしあん)
 大正十二年(1923)、関東大震災直後に青山草堂の古材をもって建てられた間口一間半、奥行き二間の小庵。当時山王草堂が建築中であったため蘇峰は付近に借家していたが、借家が手狭なことと、国民新聞社社屋が震災で焼失したことからこの庵で「近世日本国民史」などを執筆した。
 庵は、山王草堂落成後に門人の青木藤作氏に譲られたのち、栃木県佐久山町(現在は大田原市)に寄贈された。
なお、庵内の蘇峰の揮毫した書、遺晶終等は栃木県馬頭町馬頭町広重美術館に所蔵されている。
 「枝庵」の名称の由来は、中国の古典「荘子」の「鷦鷯巣於深林、不過一枝」(鷦鷯(しょうりょう=みそさざい)深かれる林に巣くうも一枝をもちうるに過ぎず)から採られている。

牛後庵(ぎゅうごあん)
 大正十三年(1924)、蘇峰の次男の徳富萬熊(とくとみまんくま)の住居として建てられた木造二階建の建築。蘇峰が山王草堂に居を構える以前の居宅、青山草堂の書斎を移築したもの。萬熊は考古学の研究を趣味とし、古瓦、板碑、土器、石造物等約七千点を牛後庵一階に収蔵し、二階に起居していた。これらの収蔵品のうち、四点は「徳富コレクション」として当記念館に展示しているが、他は主に国学院大学考古学資料館に寄贈されている。
 「牛後庵」の名称の由来は、やはり中国の古典「史記」の「寧為鶏口、無為牛後」(むしろ鶏口となるとも牛後となるなかれ)から採られている。
 これらの建築は蘇峰公園内には現存しないが、当時建てられていたと推測される地点に旧跡として標柱を建て蘇峰の起居していた往時を偲ぶものである。



成簣堂文庫跡



一枝庵(いっしあん)跡



牛後庵(ぎゅうごあん)跡



古塚

 塚は、地面を60 cm 掘り込み、高さ2.5m余り赤土を方形に二段築きあげ、その内部には、一辺1.3 m 厚さ20cmの凝灰岩質砂岩の切石が石
壇として安置されていた。塚の南面は、東西15 m 深さ50cmの溝が「コ」の字型に掘られていた。このことから、築造当時は、赤々とした人工の山が周囲の黒土から際立った存在として人々に仰ぎ見られたことであろう。
 塚は、内部に石壇があることと築造方法が古墳と異なることから、祭肥に用いられたと考えられ、その年代は、かわらけ系の土器が溝から出土したことにより平安時代末期から鎌倉時代にかけてと推定される。
 また、塚は、築造方法とその特異な内部構造から区内に類例がなく、非常に貴重である。




古塚。
真ん中くらいに見える石塔は馬頭観音



肥後六花

 「肥後六花」は、徳富蘇峰の生地肥後熊本で、 江戸時代から 「武士の園芸」として育まれてきたつばき、さざんか、しゃくやく、はなしょうぶ、きく、あさがお、の銘花たちです。
 六花を観賞する上で最も肝要なことは、「まず花芯を見よ」 ということであり、六花に共通していることは、花芯の見事さ、一重一文字咲きの花形の均斉美、花色の清麗さの三点をかたくなに守ってきたことであり、花を愛する肥後人の心の現われといえます。
 園内のもみじ他の周辺には、あさがおを除く五花とともに、万葉集で詠まれる 「あさがほ」にちなんだききょうなどの野草が樹々の中に見られます。



園内の石造物



 ここに見られる台座には左の写真にみられるようにかつて「徳富蘇峰」の胸像.がありましたが、戦時中に供出してしまったために今は台座だけが残っています。
 この他にも園内には、五輪塔。道標などの各種石造物がありますが、これらの大部分は、蘇峰の二男徳富薦熊氏が収集したものといわれています。



井戸



カタルパの小径




尾崎士郎記念館

こちらもコロナウィルス感染防止で休館中。
まだ行ったことがないのでコロナが収束したら来てみよう。




 尾崎士郎(1898~1964)尾崎士郎は新しい家庭をもち、住まいを移しました。山王・源蔵 ヶ原周辺で何度か家を変えながらもペンは進むようになり、彼の出世作とも言える、『人生劇場』を書き上げます。
この小説、もとは新聞の連載ですが本になっても売行きはサッパリでした。ところが友人の川端康成が絶賛したのをきっかけに、たちまち本はベストセラーになり、尾崎士郎の小説家としての地位は不動のものとなりました。




◆金子屋敷跡

現地に行っても説明板など何もなかった。
WEBで調べてみた。
金子屋敷は、

『新編武蔵国風土記稿』に、金子氏という富豪の館であったとされる。
遺構も資料もなく、実在したものであるかは不明とのこと。

1941年に日本コロムビアの三保幹太郎氏の私邸を建築。
1953年に東芝に譲渡され、政財界要人を接待する目的で所有していた迎賓館「東芝会館」とする。
2017年東芝よりニトリが買い取る。


渥美俊一記念館といい、ニトリすごいね・・・・。
2020/04/02 中目黒散歩 05 中の橋/菅刈公園/西郷山公園/西郷橋/渥美俊一記念館/南平坂 - ovanの社会科見学



続く。