お詣りに来たことがある。
2018/07/30 西早稲田散歩 03 西早稲田天祖神社/面影橋/早稲田水稲荷/堀部安兵衛の碑/聴松亭/太田道灌「駒繁松」 - ovanの社会科見学
この時は「早稲田水稲荷神社」となっていた。
『旧称「冨塚稲荷」と命名されたが、元禄15年(1702年)に霊水が湧き出し、現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。
また甘泉園公園に隣接しており、境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも)は早稲田大学拡張工事の際に、同大学の構内にあった江戸中最古の富士塚を移築したものである。普段は登拝できないが、7月の海の日とその前日に催される「高田富士まつり」の際に一般の登拝が可能となっている。 』
水稲荷神社 - Wikipedia
水稲荷神社の宮神輿
現存の宮神輿は、大正十一年(1922年)の例大祭で初めて氏子中と巡幸しました。以降、現在に至るまで三年ごとの大祭には町中を神輿が練り歩きます。
建立当時の氏子中に早稲田大学創立者大隈重信候がおられました。 重信候は本神社に日々礼拝されるなど信仰が厚く、神社の社務所を建てる為に多大な寄付をされました。 このご寄付により、社務所のみならず、大正の神興工芸の粋を極めたとても美しい宮神輿の建立が叶いました。
水稲荷神社の御由緒
水稲荷神社は天慶四年(941年)現在の早稲田大学の構内に建立されました。 元禄一五年(1702年)「大椋」の下に霊水が湧きだし、眼病に効能があると江戸市中で大評判となりました。また、「我を信仰するものには火難を免れしむべし」とのご信託により、消防関係者・水商売の参詣が多くありました。
昭和三十八年(1963年)、早稲田大学との土地交換により当時の大学構内より現在地に遷座されまし神社には七つの神御末社がございます。これらの御末社にも大隈重信候の湖信奉は大変厚く日々礼拝しておられたそうです。その御縁があってか、早稲田大学のみならず、入学御祈願の霊験顕著と評判です。
◆神輿庫/神楽殿
◆境内社
◆境内社
◆富塚古墳
後のこんもりしている部分がそうなのだと思う。
『かつて東京都新宿区西早稲田1丁目(現在の早稲田大学9号館付近)に所在した古墳。』
富塚古墳 - Wikipedia
◆天神社/北野神社


◆駒繁松


山吹の里は此の辺一帯を云う名です。
◆狛狐



◆境内社



◆堀場武庸加功遺跡之碑



この記念碑は、「忠臣蔵」における代表的説話であり、地域の伝承として知られる 「高田馬場の決闘」(元禄七年)における赤穂浪士・堀部安兵衛 (1670~1703)の事績を顕彰する記念碑である。 江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が、明治四十三年(1910)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作、鍋は堀部忠蔵の手になる。また、
賛助者には頭山満・犬養毅・大隈重信・三田村鳶魚など当時の名士が名を連ねている。当初は茶屋町通りにある久蔵の植木園に建てられたが、昭和四十六年(1971)に現在地に移された。 総高は約350cである。
この記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし、「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけては全国的に建碑ブームが巻き起こり、歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。歌川国芳 「忠孝義勇 伯父の復讐」(新宿歴史博物館蔵)
◆平和の礎


「碑歌」
世界の洋に 大陸に 大和男のこの 使命をにない 祖国の栄を信じつつ
ああ 同胞は 散華せり いとし背の君 可愛い我子よ
まぶたに消えじ 別離のすがた
みたまよ永久に 安かれと ああ 今ここにその影まつる
平和の礎は 大東亜戦を聖戦と信じ 滅私興国の至誠を以て 散華した新宿区内の英霊及び早稲田大学教職員並に出陣学徒の英霊四千三百余柱をおさめ、常住に平和を希求し慰霊するは我等戦友の責務であると誓い、同志郷友会員の素志により建立した次第です。
◆鳥居




場所はコチラ↓
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2018/07/30 記事アーカイブ
◆早稲田水稲荷神社
稲荷社
狐さんが見つめあってる!
社もないし、かなり珍しい。
琴平大神/高木大神/三島大臣/水大神
この他、浅間神社と富士塚がある!?
富士塚は普段登れないが、7月に登れる日がある!?
って、ついこの前じゃないかあ(w
来年、また来ようっと。
◆堀部安兵衛の碑
この記念碑は、「忠臣蔵」における代表的説話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄七年)における赤穂浪士・堀部安兵衛(1670〜1703)の事績を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が、明治四十三年(1910)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作、鐫は堀部忠蔵の手になる。また、賛助者には頭山満・犬養毅・大隈重信・三田村鳶魚など当時の名士が名を連ねている。当初は茶屋町通りにある久蔵の植木園に建てられたが、昭和四十六年(1971)に現在地に移された。総高は約350cmである。
この記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし、「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけては全国的に建碑ブームが巻き起こり、歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。
◆太田道灌「駒繁松(こまつなぎまつ)」
太田道灌が馬を繋いだという松の木。
ただ、当時のものではなくて、3代目だとのこと。
太田道灌が雨宿りに寄った農家で蓑を借りようとしたら、その家から出てきた少女が庭に咲いていた山吹を一枝切って差し上げた。
道灌は気分を悪くして帰ったが、家臣に少女が古歌「山吹の歌」のことを教えられ、自分の無学なのを反省し、和歌の道に励んだとのこと。
「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき」
実の → 蓑 にかけて、貧乏でお貸しする蓑が一つもないことを悲しく思う。