

八王子千人同心は、八王子で甲斐との国境を整備するために配備された武士団である。関ヶ原の戦いの頃には 1,000 人ほどの規模であったため、その名がつけられた武士とはいえ、平常は農耕を営む半農半士のきわめて特異な形態であった。
1893年(明治26) に日野の大火で家を焼失した溝呂木(みぞろぎ)家が、八王子にあった千人同心の子孫である塩野家から建物を買い取り、その部材を転用して日野市に農家を建てた。塩野家は千人同心の組頭を務めた家柄で、先祖には 『桑都日記』の著者として有名な塩野適斎がいる。
この建物は、溝呂木家の各部材に残る痕跡の調査から、江戸時代末期の千人同心の住んでいた頃に復元した。

八王子千人同心の文化活動
江戸時代後期、千人頭や同心組頭の中から、塩野適斎や植田孟縉などのいわゆる文化人が輩出した。 彼らは私塾を開き、文武の普及につとめ、多くの門弟を育てた。幕府の地誌編纂に携わり、私の地誌や歴史書も残した。彼らの中には洋学を学び普及につとめる者や幕府の対外政策を論じる者もいた。
八王子千人同心の組織
八王子千人同火は、八王子とその周辺地域に居住した郷士集団である。もともと、甲斐武田氏の小人頭に率いられた同心衆が、武田氏の滅亡後、徳川家康の配下となったのが始まりである。 1590年(天正18)、徳川家康が関東の領主となると、八王子
に配備された。
八王子千人同心は、10人の千人頭のもとに組頭100人、組頭のもとに平同火800人、持添抱(もちぞえかかえ)同心100人という構成であった。
八王子千人同心の役割り
八王子千人同心の役割りは、当初、甲武国境を警備することであった。 戦乱が収まると、将軍上洛や日光参詣の時の供奉、江戸城修復の時の警備を勤めた。1652年(慶安5)、家康を祀る日光の火の番を命じられると、この任務が主な役割りとなり、日光勤番は、江戸時代を通じて、一千回以上にものぼった。 江戸時代後期には北海道の開拓や地誌編纂、幕末期には江戸警備や長州戦争への出兵などの勤めも果たした。

八王子千人同心の分布
千人頭と組頭は現在の八王子市千人町付近の拝領屋敷に居住する士分であった。
千人頭は200から500名ほどの知行地を与えられ、組頭は約30俵1人扶持 (1人扶持は男子1日5合で1年分)を支給されていた。
平同心は八王子周辺農村に居住する上層農家が多かった。江戸時代後期になると、平同心の役職は株として売買されるようになり、同心の居住地域も現在の多摩地域全域や埼玉県、神奈川県まで広がっていった。
八王子千人同心の住まい
八王子千人同心の住まいに関する資料は極めて少ない。拝領屋敷地の様子がうかがえる「千人町図」によると、千人頭は広大な屋敷となっているが、組頭の屋敷地は広いものではなかった。一方、農村部の上層農家が同心株を取得すると、農家の構えに式台など十分の格式を付け加えていった。

