2020/05/23 目黒不動・世田谷野沢散 03 成就院/安養院/比翼塚・稲荷神社/目黒不動尊/三折坂/元競馬通り/不動ふれあい広場

目黒不動尊周辺を散歩し、西へ向かう。
成就院」「安養院」「比翼塚・稲荷神社」は目黒不動の参道途中にあった。


成就院




 天安2年(858) 慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。 俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。
 この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752~1815) 筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。
 境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、3代将軍家光が遠州秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊庚申塔が建っています。



お静地蔵尊




 この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長十六年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
 元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
 正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
 お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。




山門




◆安養院










◆比翼塚・稲荷神社

稲荷神社



比翼塚




 処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は[後追い心中]として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを
祈りたてられたという。





目黒不動尊

一度来ている。
2017/02/19 part3 青木昆陽のお墓/目黒不動尊/恵比寿神 - ovanの社会科見学




 天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
 江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中感応寺(現天王寺)と並んで「江戸の三富」と称されました。
 境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
 その昔、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。
 裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。






大日如来

2017/02/19撮影




2017/02/19撮影
 蓮華座に結枷趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躰、両腕、膝等十数ヶ所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躰にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躰も衣文表現もよく整っています。
 現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の目黒不動堂の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。
 台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴史が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。




鳥居




案内図




鐘楼堂




男坂と鷹居(たかすえ)の松跡






鷹居(たかすえ)の松跡
 江戸幕府 3代将軍徳川家光寛永(1624~1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹 が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。
 これ以後、家光 は不動尊 を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永 11年(1634)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。
 幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。
 尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。




女坂



神変大菩薩



 役の行者(役小角(えんのおづの)ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体駆や手足の表現、法衣や袈裟の衣文(えもん)のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。
 表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には錫杖(しゃくじょう)を持っています。
 また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。





阿弥陀堂




地蔵堂




観音堂




垢離堂




独鈷の滝




 このお滝は今を去る干二百年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独結を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したのて之を独結の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れる こともなく滔々(とうとう)と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。
 今日都内では大変珍しい名所てある。




水かけ不動




 當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師園仁で、ー千二百有余年前の大同三年(八〇八)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。
 天安二年、大師が法具「独鈷」を投じて堂宇造営の敷地をトされたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「独鈷の瀬」と称されました。
 大師はお堂の棟札に「大聖不動明王心身安養呪顧成就灘泉長久」と認め龍泉寺、と号され、泰香、の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅業、冬積もる雪と、関東最古の不動霊湯は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。
 「独鈷の滝」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩孝藩主島津斉彬公の富病平癒を祈頼されました。
 目黒不動尊御詠歌
    清らけき 目黒の杜の独鈷瀧 災厄難を除ける不動尊
 ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水力け不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。
 合掌礼拝して「独鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。




前不動堂




 泰叡山滝泉寺は、通称「目黒不動尊」と呼ばれており、大同三年(808)、慈覚大師円仁の創建と伝えられる天台宗の寺院です。境内にある前不動堂は、江戸時代中期の建築になり、『江戸名所図会』にも、現在地付近に「前不動」として図示されています。前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像等を安置してあります。 江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。 この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。筆者の佐々木玄龍は、通称万二郎、池庵を号していました。慶安三年(1650)、江戸に生まれ、
書風一家をなし、享保七年(1772)に亡くなり、墓標は青山霊園にあります。




青木昆陽甘藷(かんじょ)先生碑





北一樹先生




 この碑は北一輝先生の顕彰碑て大川周明氏の文によるものです。
 先生は明治一六年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助Lし又日本改造論を叫び、国家主義頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。
 時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に二・二六事件を惹起する要因になった。 勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和十二年銃殺刑に処せられた。 然し先生の生涯をさ丶元たものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。
 每年八月十九日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。




勢至堂




 瀧泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されでいます。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の瀧泉寺の面影を残しています。
 向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。
 現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、瀧泉寺境内の優れた景観を形成しています。




本居長世




 童謡は第一流の詩人が手供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世音楽学校で中山晋平 弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに
大正九年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この寺の焼内を散歩しながら想を練ったことでしょう。
 今ここに氏の曲の碑を建てて氏の功績を記念したいと思います。



腰立不動




三界萬霊塔




仁王門





恵比寿神



福珠稲荷大明神



豊川稲荷



恵比寿神/福珠稲荷大明神/豊川稲荷
入口鳥居




目黒不動門前町

 「お不動さん」の名で親しまれる目黒不動大同3年(808)、慈覚大師の創建と伝えられるが、寺が隆盛を極めるのは江戸時代に入ってから。3代将軍・家光以来、徳川幕府の厚い庇護を受け、荘厳華麗な大寺院に生まれ変わった。
 また周辺は門前町として発展。目黒名物の飴や餅を売る店が軒を連ね、活況を呈した。
 目黒不動には「独結の滝」「鷹居の松」など、慈覚と家光の二人に因んだ伝説や挿話も多く、興味が尽きない。






◆三折(みおり)坂

坂下。




 三つに折れ曲った形状から 三折坂とよばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降(みおり)坂」とよんだともいわれる。




坂上





◆元競馬通り

後で出てくるが、この辺りに昔競馬場があったとのこと。






◆不動ふれあい広場





続く。