2020/11/02 大阪歴史博物館


一番びっくりしたのは大阪にも「都」があったということ。
難波宮」があったということだ!

難波宮(なにわのみや)は、古墳時代応神天皇の難波大隅宮や仁徳天皇の難波高津宮、欽明天皇の難波祝津宮。以来、飛鳥時代奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代の宮殿、日本の首都であり都城。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%AE




大阪歴史博物館はその史跡の中に建っている。
常設展示ではかなりの部分を「難波宮」が占めていた。


僕らの時代の歴史の教科書では、平安京平城京くらいしか習わらなかっが、今の教科書は変わっているんだろうね。


もちろん近現代史の展示もある。
かなり凝っているね。


見ごたえはかなりあり、じっくり見学したいのなら半日は必要だね。
規模でいうと両国にある「江戸東京博物館」くらいはある。


博物館からの眺め。







特別展「埋忠(うめただ) 桃山刀剣界の雄」も見る。
大阪歴史博物館:特別展:埋忠〈UMETADA〉桃山刀剣界の雄


刀関係の展示だった。
刀身に龍の装飾がしてあるものがいくつかあった。
装飾にもいろいろな意味があるんだろうね。



1Fには「刀剣乱舞」のパネルが・・・・。
刀剣の展示のわりには女性が多かったのはこれのせいかな?




外にも展示物があった。



法円坂建物群
5世紀の大型高床建物群
 瀬戸内海の水運により大陸と結び、淀川や大和川をさかのほって古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波は、交通の要地でした。その中心である上町台地の北端にあたるこの地から、1987(昭和62)年に行なわれた発掘調査で5世紀後半頃の巨大な建物群が発見されました。
 16棟以上の高床建物が整然と建てられており、1棟あたりの規模は行行(幅)か約10m、梁行(奥行き)は約9mです。面積は約90㎡と、当時としては極めて大規模な理物てした。柱配置の特徴から、屋根の形は入母屋造りになると思われます。
 建物群は東西方向に棟を揃え、厳密な計画のもとに建てられていました。百舌島(もず)や古市(ふるいち)に巨大な古墳を察いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。
 6~7世紀には、この付近一帯にたくさんの建物が建てられるようになります。難波津と呼ばれる港を中心として、このあたりは物資の一大集散地として発達しました。また中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり、遺隋使や達唐使が発着するなど、海外に開かれた玄関とし重要な位置を占めました。





大阪歴史博物館のHPはコチラ↓
http://www.mus-his.city.osaka.jp/index.html




場所はコチラ↓





休館日
『火曜日(祝日の場合は翌日)   年末年始(12月28日から1月4日)』
とありますが、行かれる方は事前にHPなどでチェックしてから行ってくださいネ。