2023/09/07 諏訪神社





野口実来(つぶれや)に、前川の洪水の時、流れ着いた御神体を、大紋廻(おおせど)と字名で呼ばれる桜井利兵衛(現桜井長寿氏方の先祖)がお祀りして、古くは諏訪明神と言われて来た。貞享2年に、六反歩の境内地と共に、西宿部落(現諏訪町)の鎮守様として寄贈した、と代々桜井家に言い伝えられて来た。寄贈の年月日は詳でないが、利兵衛氏より徳蔵寺に当てた、諏訪明神関係の古文書に、貞享2年丑ノ四月十一日と銘記しており、この日付に近い時期だと推定される。(右は桜井裕久氏の文献及び口述に依る)
明治の世代になり、神仏判然令が施行されるまで、永く徳蔵寺の管理下にあり、昔は素晴らしい杉林であって、現在の徳蔵寺本堂は諏訪神社の杉材にて建立されたと伝えられて居る。例祭に立てる大幟は、徳蔵寺十七世住職朝木蒨渓師が、文久元年に書いたもので、幟の建石は、文久元年七月願主清水市良衛門、清水岩次郎、清水助右衛門が納め、二基の石燈籠は、明治二十一年五月桜井家の子孫宇重郎氏が奉献したものである。その後台石等破損したので、昭和42年12月宇重郎氏の孫裕久氏に改修して頂いてある。
拝殿に向って左側に小祠がある。浅間神社で側面に天保十三年三月西宿中と刻んである。市の指定文化財に指定されて居る境塚(浅間塚とも言う)の頂上に祀られて在ったものを昭和の初め合祀したのである。明治7年学制施行後、化成小学校建設に当り境内の大部分を敷地に提供して、現在の処に移したのである。明治年代から大正十四年迄、毎年九月九日・十日が例祭日であったが、季節が二百二十日で毎年のように降雨に見舞われるので、九月二十六日・二十七日に変更、二年間続いたが、その頃晩秋蚕飼育が盛んになり、丁度上蔟期になるので、再び八月二十六日・二十七日に更えて今日に至る。
古老の言い伝えによると、明治の中頃は、例祭日にはよしづを張り廻らせた、水茶屋等も掛り、非常な賑わいを呈したと聞くが、明治末期から、大正・昭和と、大きな舞台を掛け、野火止・竹間澤・中福等の神代神楽師を招き、祭ばやしと共に、お神楽を奉納したのである。昭和二十二年平和音頭の踊りが流行して氏子の婦人達が奉納したのが始まりで、現在も奉納の踊りに、祭りばやしを織り込んで奉納している。




諏訪神社本殿

 社殿の奥に納められている本殿は、間口が106cm(三・五尺)、棟高(むなだか)253㎝ (八・三五尺)の一間社流れ造で、小さな規模の社に用いられる見世棚造(みせだなづくり)です。屋根は板葺で、厚板を二枚重ねに葺いた綴葺(しころぶき)という古風な葺き方で、多摩地域では珍しいものです。 記録等は発見されていませんが、 様式から江戸時代初期 (一七世紀後半)の建築と推定されます。
 また、本殿正面虹梁(こうりょう)上部の蟇股(かえるまた)に、 鎌を交差させた絵様が彫られ、豊作を祈願する村民の思いが込められたユニークな意匠です。




◆鳥居




◆諏訪児童遊園

境内の一部は公園として整備されていた。




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