2025/05/08 小金井公園・江戸東京たてもの園


小金井公園の中に江戸東京たてもの園がある。


江戸東京たてもの園(えどとうきょうたてものえん、Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum)は、失われてゆく江戸・東京の歴史的な建物を移築保存し展示する目的で東京都小金井市の都立小金井公園内に設置された野外博物館。
東京都墨田区横網にある東京都江戸東京博物館の分館である。
指定管理者制度により、公益財団法人東京都歴史文化財団が管理・運営を行っている。 』
江戸東京たてもの園 - Wikipedia







小金井公園

桜の名所として知られていて、以前散策したことがある。
2023/03/29 小金井公園 - ovanの社会科見学




小金井公園展示の蒸気機関車







江戸東京たてもの園








◆常盤台写真場

2025/05/08 江戸東京たてもの園(常盤台写真場) - ovanの社会科見学







ボンネットバス

そういえば、説明版などは見当たらなかったなあ。







◆三井八郎右衛門邸

2025/05/08 江戸東京たてもの園(三井八郎右衛門邸) - ovanの社会科見学







綱島家 (農家)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(綱島家 (農家)) - ovanの社会科見学







奄美の高倉



 きのこに似たユニークな外観を持つこの建物は、 奄美大島にあった高床式の倉庫である。屋根の部分が穀物などを入れる倉庫になっており、倉の中へははしごをかけて出入りする。建物の本体を柱で地面より高くあげているのは、 湿気や鼠の害から穀物などを守るためである。4本の柱はアカモモ (奄美大島での俗称。 一般にはツバキ科モッコク属)という堅い木材でできている。この高倉は1960年(昭和35)、東京都保谷町 (現、 西東京市) にあった「民族学博物館」に移築、展示された。この民族学博物館は民族学者で実業家でもあった渋沢敬三 (1896~1963) らが設立したアチックミュージアムを発展させた財団法人日本民族学会の研究施設であった。同博物館の閉館に伴い、江戸東京たてもの園の前身である武蔵野郷土館に再移築された。 高倉は、 高温多湿の地域に発達したもので、日本では南西諸島ほか東京都の八丈島などに見られる。







吉野家 (農家)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(吉野家 (農家)) - ovanの社会科見学







◆八王子の穀倉



 八王子にあったこの穀倉は、1800年代に建てられたものと伝えられている。現在内部は3部屋となっているが、もとは柱ごとに仕切りがあり、 小部屋3室、 大部屋2室の合計 5室に分かれていた。 穀物の出し入れは前面の「落とし板」 を取り外して行う。 閉める時は下の板から順に落とし、 最上段の横木に錠をかけるようになっている。
 天部屋には米のほか、麦、粟、稗、豆などを貯蔵し、俵にして 30 俵分の収納ができた。小部屋の3室には、雑穀を俵に入れないまま貯蔵していた。
年代: 1800年
旧所在地: 八王子市館町
寄贈者 : 守屋文夫氏







八王子千人同心組頭の家

2025/05/08 江戸東京たてもの園(八王子千人同心組頭の家) - ovanの社会科見学







◆デ・ラランデ邸

2025/05/08 江戸東京たてもの園(デ・ラランデ邸) - ovanの社会科見学







◆小出邸

2025/05/08 江戸東京たてもの園(小出邸) - ovanの社会科見学







前川國男

2025/05/08 江戸東京たてもの園(前川國男邸) - ovanの社会科見学







◆御殿山遺跡敷石住居址



この住居址からは、 中央部分の石囲いの炉や若干の土器片、 打製石斧、 石皿が発見されている。 なお、 現在では敷石の多くが失われている。
年代 :縄文時代後期 (紀元前二千年ごろ)
旧所在地: 武蔵野市御殿山1丁目







◆田園調布の家 (大川邸)

2025/05/08 東京たてもの園(田園調布の家 (大川邸)) - ovanの社会科見学







◆旧自証院霊(おたま)屋



 旧自証院霊屋は江戸幕府三代将軍家光の側室であったお振の方を祀った霊廟で、 1652年(慶安5、同年9月に承応に改元) に市ヶ谷の自証寺の中に建てられた。 禅宗様と和様の折衷様式で建築され、随所に極彩色の木彫や細やかな金具が施された荘厳な建造物である。 施主はお振の方の娘で、 尾張二代藩主徳川光友正室であった千代姫である。 建築には幕府作事方大棟梁甲良氏がかかわっていた。 甲良家は江戸時代の有力な大工で、江戸城日光東照宮のほか、江戸時代を代表する建築に携わっている。 徳川将軍家を代表とした霊廟の多くは戦災等で失われてしまった。 そのために旧自証院霊屋は貴重な文化財となっており、1960年(昭和35) に東京都指定有形文化財(建造物) に指定されている。
建築年:1652年 (慶安5)
旧所在地:新宿区富久町
寄贈者:西武鉄道株式会社








寛永寺灯籠



みづらい。。。。







◆宝篋印塔/五輪塔/五輪塔/五輪塔





高橋是清

2025/05/08 江戸東京たてもの園(高橋是清邸) - ovanの社会科見学







◆会水庵



 会水庵は、 宗徧流の茶人山岸宗住 (水) が施主となり、新潟県長岡市に建てた茶室である。 1927年 (昭和2) 山岸家の東京移住に伴い吉祥寺に移築し、1957年 (昭和32) 劇作家の宇野信夫に買い取られ、 西荻に移された。
 山岸会水は自ら茶碗や花入などを作り、また聴雪という名で茶掛の絵を描き、 茶庭(露地)の設計も行った。
 この茶室は三畳台目と勝手からなり、 屋根は桟瓦葺で庇は銅板葺、 露地には腰掛待合と蹲踞、灯籠を配している。建物は、もともと母屋に接続していたので、 西川家別邸に付ける形とし、 可能なかぎり吉祥寺時代に戻して復元した。

建築年 :大正期頃
旧所在地: 杉並区西荻北五丁目
寄贈者 :宇野克彦氏








◆西川家別邸

2025/05/08 江戸東京たてもの園(西川家別邸) - ovanの社会科見学







◆伊達家の門



 伊達家の門は、旧宇和島藩伊達家が、明治以降華族に列せられ、東京に移住するため新たに建てた屋敷の表門である。大正時代に建てられたもので、総欅造りである。 起り屋根を持つ片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしている。 門柱の上に横方向に架けられた材 (冠木) には、宇和島藩伊達家の家紋が施されている。
 宇和島藩は現在の愛媛県の西部に位置し、 仙台藩伊達政宗の子秀宗を祖とする外様大名であった。 また、 幕末の宇和島藩主は勤王家として有名であった。
 伊達家の門は武蔵野郷土館時代の1966年(昭和41) に移築復元された。
建築年 :大正期
旧所在地: 港区白金二丁目
旧所有者: 伊達宗禮氏









◆上野消防署 (旧下谷消防署) 望楼上部



 江戸時代以来、火災の発見には火の見櫓が大きな役割りを果たしていた。火の見櫓が望楼と言われるようになったのは大正時代とみられている。 望楼での勤務は過酷であるため、 昭和30年代には塔屋式や煙突式の望楼も造られた。 しかし、 建造物の高層化や電話の普及とともに、昭和30年代後半から次第に役目を終え、1973年(昭和48) には、都内における望楼の利用はほぼ取り止めとなった。
 この望楼は、 上野消防署 (旧下谷消防署) で1970年(昭和45)まで使用され、 1977年(昭和52) に解体された。三脚四層式外廊型で、当時の高さは約 23.6m。展示しているのは、 上部およそ7mほどの部分である。







万世橋交番



 これは神田の万世橋のたもとにあった交番である。 名称を須田町派出所といい、万世橋駅のそばにあった。 1923年(大正12)の関東大震災により、 駅とともに大きな被害を受けたが、のちに以前のとおりのデザインに修復された。
 震災以前の万世橋駅は、1911年(明治44) に設けられた甲武鉄道 (現在の中央線)の起点としてたいへんにぎわっていた。しかし、万世橋駅 東京駅間の開通や、震災後の区画整理などによって利用者が急激に減り、1943年(昭和18) に廃止された。万世橋交番も昭和初期にはその役目を終え、 以後は主に巡査の休憩所や交通係詰所として利用された。

建築年 :明治時代末期 (推定)
旧所在地: 千代田区神田須田町一丁目
寄贈者:警視庁








◆郵便差出箱








◆都電7500形7514号








◆村上精華堂 (化粧品屋)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(村上精華堂 (化粧品屋)) - ovanの社会科見学







◆丸二商店(荒物屋)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(丸二商店(荒物屋)) - ovanの社会科見学







◆植村邸

2025/05/08 江戸東京たてもの園(植村邸) - ovanの社会科見学








◆大和屋本店 (乾物屋)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(大和屋本店 (乾物屋)) - ovanの社会科見学









◆花市生花店/武居三省堂(文具店)/たべもの処 蔵

2025/05/08 江戸東京たてもの園(花市生花店、武居三省堂、たべもの処 蔵) - ovanの社会科見学









◆川野商店(和傘問屋)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(川野商店(和傘問屋)) - ovanの社会科見学









◆万徳旅館

2025/05/08 江戸東京たてもの園(万徳旅館) - ovanの社会科見学









◆小寺醤油店

2025/05/08 江戸東京たてもの園(小寺醤油店) - ovanの社会科見学









◆子宝湯

2025/05/08 江戸東京たてもの園(子宝湯) - ovanの社会科見学









◆鍵屋
2025/05/08 江戸東京たてもの園(鍵屋) - ovanの社会科見学









◆任立屋

2025/05/08 江戸東京たてもの園(任立屋) - ovanの社会科見学









天明家 (農家)

2025/05/08 江戸東京たてもの園(天明家 (農家)) - ovanの社会科見学









◆皇居正門石橋節電燈



 皇居前広場から皇居へ向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。 橋の欄干両側にある男柱石に計6 基設置されていたもののひとつである。
 石橋は長さ百六尺四寸 (約 35.3メートル)、 幅四十二尺二寸(約12.8メートル)で、江戸時代に架けられた「西の丸大手橋」といわれる木橋に替わり、1887年(明治20)12月に架けられた。飾電燈は 1886年(明治19)東京電燈会社へ発注されたものであるが、完成日 設計者 鋳造場所など不明な点が多い。
 節電燈の台座は、 石橋にある男柱石を復元したものである。
年代
明治20年
旧所在地: 千代田区千代田









◆ビジターセンター (旧光華殿)



 1940年(昭和15) は、「日本書紀」に記されている神武天皇即位の年を元年とする日本の紀元 (皇紀)から2600年目に当たるとして、「紀元二千六百年記念式典」 が開催された。 11月10日に皇居前広場にて行われたこの式典のために仮設された式場が 「光華殿」 の前身である。
 式典後、この建物は解体され、現在地に移築された。1941年(昭和16) 8月には移築が完了し、その後1年間かけて恒久的仕様に改修、光華殿と命名された。その後は文部省教学局により「教学練成所」 として使用された。戦後、「学習院中等科」 が小金井に移ることとなり、光華殿や教学練成所当時の研究棟などに手を入れ、 1946年 (昭和21)5月に小金井校として開校した。それにともなって、 当時在籍していた皇太子明仁親王 (現上皇) も、光華殿西隣に設けられていた「東宮御仮寓所」に移り、勉学に励んだ。 光華殿の裏手には皇太子のための「御学問所」 が設けられ、ここでヴァイニング女史による英語の個人授業も行われた。 1949年(昭和24) 暮れ、「東宮御仮寓所」 は焼失し、皇太子はこの地を離れた。その後、1954年 (昭和29) 東京都により 「武蔵野郷土館」 が設立され、光華殿は展示室として利用された。 1993年 (平成5)からは江戸東京たてもの園のビジターセンターとして改修され、現在に至っている。 1996年(平成8)3月、天皇皇后 (現上皇上皇后) は即位後初めてこの地を訪れた。
建築年 1940年(昭和15)
旧所在地: 千代田区千代田